九〇年代の財政に何が起こったか?バブル崩壊と日本経済。

 

八九年末の三万八九一五円をピークに日経平均株価が下落し始めたのを契機に、バブル景気に終焉の時が訪れた。日本経済全体でみると、バブルが終わったと国民の多くが認識し始めるのは、景気後退期に入った一九九一年二月以降であろう。後知恵で言えば、これがバブル崩壊と呼ばれる端緒となった。

ただ、当時はまだ深刻な認識はなく、一時的な景気後退で再びバブルの時のような好景気に戻るという認識が強かった。一九九二年八月、宮沢内閣が経済対策を打ち出し、九〇年代最初の景気対策を講じた。しかし、この当時の主要な政治課題は政治改革であり、景気対策は二の次だった。一九九三年の衆議院総選挙で自民党は分裂・敗北し、非自民連立政権の細川内閣が誕生した。

一九九四年に公職選挙法等が改正されて衆議院選挙で小選挙区比例代表並立制が導入されるまでは、経済政策は国会で重要な議題とならなかった。結局、バブル崩壊の深刻さが政治の表舞台で取り上げられるのは、非自民連立政権が崩壊した後だった。自民党・社会党・新党さきがけの連立政権である村山内閣は、一九九四年十一月に、一九九四~一九九六年の所得減税と一九九七年度からの消費税率引上げを決定した。消費税廃止を公約していた社会党が、消費税率引上げを容認したことは歴史的な皮肉である。

この税制改正とともに財政支出(特に公共投資)を増加させる経済対策も打ち出した。一九九〇年代中葉の財政運営は、景気を刺激させるべく公共投資の増加と減税を行い、その代わりに増加する国の借金を将来景気がよくなってから返済するというものであった。この景気対策が有効に機能したか否かは、公共投資と減税によって景気がよくなるか否かに懸かっていた。この時期増額された公共投資が、景気回復に有効であったかをみてみよう。

この時期における一人当たりでみた国からの公共投資額と、一九九三年の衆議院総選挙における与党(自民党・社会党・新党さきがけ)の得票率の関係を示している。地域割りは、現在の衆議院での比例代表選挙区と同じである。両者の関係は概ね、与党得票率が高い地域で、一人当たりの国からの公共投資額が多くなっている。

特に、北海道、東北、北陸信越、四国で得票率が高く、公共投資額が多くなっている。別の言い方をすれば、与党は都市部で得票率が低く、それだけ公共投資を少なく配分している。もちろん、より客観的な経済学的分析でもこの関係は支持される。与党得票率が高いとそれだけその地域選出の与党議員が多くなり、与党内での政治的影響力が強まる。その影響力は当然、公共事業の配分にも及ぶ。与党内での影響力が強い地域は、それだけ多く公共事業が配分されることになる。

この傾向は、一九七〇年代から八〇年代前半での自民党単独政権下にも見られた。重要なことは、その傾向が自社さきがけ連立政権下でも踏襲されていたことである。一時政権を手放した自民党は、都市部での票を獲得できなかったから選挙で敗北したという結果にも懲りずに、単独政権時とほぼ同様に、地方部に手厚い公共投資配分を続けたのである。

次に、この時期の各地域における一人当たり実質経済成長率と経済規模を表している。ここで、経済成長率が高い地域は、先の公共投資額が多かった北海道、東北、北陸信越、四国である。特にこの時期、バブル崩壊が始まって景気が悪化しつつあったから、景気対策として地方部に公共事業を積極的に行っていた。これだけとれば、国からの公共投資額が多かった地域では、経済成長率が高かった、という推論が成り立つ。つまり、公共投資が経済成長を促したとも見える。

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